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退 屈 な 人 へ 第29回定期演奏会より 2005.6.26
3月下旬、初めてブルガリアへ行った。雪のちらつく早朝4時、自宅を出て中部国際空港へ向かった。ブルガリアは日本より寒いと聞いていたので、釣り用のアンダーウエアーを全て持って行った。今回は2週間の長旅だったので、荷物も半端な量ではなかった。開港間もない真新しい中部国際空港だが、ブルガリアへの直行便はおろか、ウィーンへ行くにも成田を経由しなくてはならない。つまりセントレアから成田、成田からウィーン、ウィーンからソフィアと3度も乗り換えなくてはならないのだ。日本から遠いことは確かだがその乗り換えによるロスもあり、自宅を出てソフィアのホテルまでの所要時間はなんと24時間も要するのである。ブルガリアが我々にとって遠い存在であるのが分かるような気がする。
ブルガリアと聞いて私が第1に連想するのがヨーグルト、そして五木寛之のエッセイ「ソフィアの秋」ぐらいで、たまにブルガリア国立オペラが日本で演奏しているのを耳にする程度で、これまであまり意識したことのない国だった。
丸一日を費やして無事にソフィアの「グランドホテルブルガリア」に着いた。名前は立派であるが、部屋のドアは閉まりにくくシャワーは壊れていた。町の車は黒煙をまき散らし路肩ではボンネットを開け整備に夢中なっているタクシーが多い。でも町の人は穏やかで我々外国人にもとても親切であった。決して近代的ではないが、古い素朴な家々が優しくたたずんで何か穏やかさを醸し出していた。昨年行ったウィーンの町はどこを見ても絵はがきになりそうな整えられた美しさがあった。しかし、ソフィアの町は飾りのないアンティークな美しさがあり、ウィーンに比べて優しく映った。
日本に比べて物価は安いが、生活は豊かとはいえない。今年から給料が2倍になったソフィアフィルのメンバーでさえ日本より遙かに厳しい状況で月収5万円程度と聞いた。2リットルのミネラルウオーターが40円。ピザを腹一杯食べても100円程度と我々旅行者にとってはすこぶるありがたいが、彼らの生活は楽ではないようだ。
しかし、オーケストラの実力は驚くもので、特に弦楽器の鮮やかな音色は日本のどのオーケストラと比べても格段の違いがある。管楽器は最近ヤマハから寄付されたものでヤマハが主流である。ティンパニもヤマハのYP5000である。弦楽器も高価な楽器は使っていないと聞いたが、オーケストラの実力は凄い、特にロシア・ヨーロッパものの演奏には歴史と伝統を感じた。
で、何しにわざわざブルガリアに行ったかというと、前半の1週間はブルガリア国立ソフィアフィルハーモニーとの”夢のコンチェルト”のリハーサル及びコンサートの鑑賞。後半が”ブルガリア国立プレーベンフィル・指揮者マスタークラス”への参加。つまり前半の1週間は見学だけで後半がメインというわけ。
当初は後半1週間だけの予定だったが、主催者の誘いとソフィアフィルへの魅力に駆られて1週間前からブルガリアに行くことにした。
”夢のコンチェルト”への参加者は下は7歳から上は36歳のお姉様で、それぞれが数回のリハーサルを経てソフィアフィルと共演した。ラヴェルのピアノコンチェルト、ラフマニノフの2番、ショパンの2番、アルビノーニのオーボエコンチェルトなど、多彩なプログラムだった。
ソリスト達は3回のステージリハーサルの後、二日間に分かれてソフィアフィルの伴奏で本番を迎えるのである。
とにもかくにも話題と人気を圧倒的にさらったのは7歳・8歳の女の子たちである。モーツアルトのコンチェルトを弾いた彼女たちは、リハーサルの時からオーケストラのメンバーに絶賛されていたが、本番ではどんなマエストロでも叶わないだろうと思える熱狂的な賞賛の嵐を巻き起こした。けなげで直向き、そして確実なテクニックを伴った演奏はその場に居合わせた全ての人を虜にしてしまったのである。
感動冷めやらぬ翌日ソフィアから”指揮者マスタークラス”参加のためプレーベンに向かった。片道2時間半の車の旅はなかなか良かった。残雪の山道は日本の岐阜や長野の山々と似ていた。山を下るとアルプスの少女ハイジが住んでいるような景色が続き、のどか・素朴の最上級の景色が続いた。
ソフィアの人口130万人に比べて、プレーベンの35万人はいかにも少ないが、町並みはそれほどの差を感じなかった。我々が宿泊した「インターロストホテル」もリニューアルされたばかりの美しいホテルでソフィアより格段に良かった。
ところで私はいったい何しにプレーベンにまで移動したのか?思い出した。国立プレーベンフィル主催”指揮者マスターコース”に参加するためだった。途端に緊張が始まった。相手は私にとって経験の少ないオーケストラ。しかも国立のプロオーケストラであるから、不安がなかろうはずがない。
翌朝から早速オーケストラとの練習を始めた。最初に取り組んだのがベートーベンの「交響曲第7番」である。通訳の方がそばにいて下さっているとはいえ、メンバーはブルガリア語しか話さず、片言の英語もなかなか通じない。また、その英語力も、それを人前で話す勇気も極めて少ない私にとって、手も足も出ない状態であると言って良い。それでプロを相手にベートーベンの7番をまとめ上げるのだからかなり荷が重い。ところがオーケストラの方はそんな私を気遣ってくれ、常に笑顔で接してくれたのである。緊張の極みの中で練習を進めていると、オケのテンポが妙に遅いと感じた。ゆとりのない私はオケにかまわず、自分のテンポでグイグイ引っ張っていった。でもプロオケは重く、私のような棒ではなかなか動いてくれない。体中から汗が噴き出し、力むばかりで一向に演奏がまとまらない。
何とか予定の時間で切り上げ、ホテルに戻って先ほどの練習をビデオでチェックした。画像が現れると同時にディスプレイに釘付けとなってしまった。自分で描いていたテンポとは大きく異なり、恐ろしく速いテンポでオケを引っ張り回していたのだった。赤面の至りで、2度と見たくないし、誰にも見せることが出来ない。何よりオケの方々に申し訳なく、私の指揮が速い、と気づいていながら、でたらめな私のテンポに合わせてくれていた。ただただ頭を垂れるばかりだった。極度の緊張でテンポ感覚が全く失われてしまっていたのだ。
自分の実力に愕然としながらメトロノーム片手に翌日のリハーサルの為にに必死で練習した、まさに泥縄である。3日間で「ベートーベンの交響曲第7番」、モーツアルトの「ピアノ協奏曲第20番」、ウェーバーの「魔弾の射手」序曲の3曲を仕上げなくてはならない。
そして三日日にはオーケストラのメンバーとプレーベンフィルの音楽監督の推薦により最優秀指揮者が選ばれ、最終日にコンサートを行うのである。
翌日は準備万端で臨んだつもりだったが、ホテルから徒歩で15分ほどのホールに着いた時、ビデオの三脚を忘れていることに気づき、あわててホテルに走った。練習時間には間に合い、何とか事なきを得てリハーサルは順調に進んだ。
リハーサル二日目、、仲間五人でホテルの前にあるブルガリア家庭料理の店に昼食を食べに行った。何か変な動きをしている中年女性がたむろしているな、と思ってはいたが、お金を払おうと席を立った時に私の目前に座っていた、ピアニストが突然立ち上がり、
「鞄を取られた!」
と叫んだ。ロシア語がペラペラの仲間が店の人に告げると先ほどの中年のジプシー女が犯人だという。犯行に気づけなかった私は責任を感じて、その女達を探して町を走った。鞄はゴミ箱に捨てたかもしれない、とのアドバイスもあり、走りながらゴミ箱のあさりちゃんもした。結局何の手がかりも得ることなく警察のお世話になり、鞄にあった現金をはじめ、盗まれたものは戻らなかった。だがパスポートだけは帰国日までに再発行していただける見通しとなった。
ホテルに戻ると他の参加者も同じくジプシーの女にポケットにまで手を突っ込まれて財布を取られそうになったという。たまたま近くにいたブルガリア人が助けてくれて事なきを得たというのである。ジプシーにはくれぐれも気をつけろ、とは聞いていたがこんな被害に遭ってしまうと外に出るのが怖くなってしまう。
リハーサル最終日、ビデオカメラも三脚もバッチリ、ジプシーにも注意を払い万全の準備をしてホールに向かった。カメラをセットしてホッと一息ついている時、ふとパスポートのことを思いた。貴重品の全てを失ったピアニストは無事に日本に帰られるめどが立った良かったなあ、と。その時、自分のパスポートは?と不安がよぎった。確かいつも持ち歩いているナップザックの中だ。急いで中を調べてみるとあるはずのパスポートがない。もしかするとホテルに置いている上着のポケットか。ダッシュでホテルに帰った。上着のポケットを探したがパスポートはない。やはりナップザックの中か、再びダッシュでホールへ。隅から隅まで調べたがない。ザックにない。無くしてしまったか、それとも・・・・。いや、ホテルの部屋のどこかにしまい込んでいるのかもしれない。再びホテルにダッシュだ。息切れと焦り、そして日本に帰ることが出来なくなったらどうしようという不安等、悪いことが次かだ次へと脳裏をかすめる。パスポートを探しているのか部屋をひっくり返しているのか自分でもよく分からなくなっていた。当然見つからない。一刻も早く責任者の先生に報告して、日本大使館に行って再発行をして頂かなくては日本に帰ることが出来ない、一刻の猶予もない、と思った時には再びホールに向かってダッシュしていた。
プレーベン市内では珍しい東洋人が、しかも何度も血相を変え、ダッシュで右往左往しているのだから相当目立ったに違いないのだが、本人は超真剣だ。ホールに着いたが責任者の先生が見つからない。その時、少しだけかすかな記憶がよみがえった。ソフィアからプレーベンに移動してホテルに入った。チェックインの時にもしかしたらフロントに・・・。チェックインの時にフロントに預けて、そのままになっているのかもしれない。再びホテルへダッシュだ。片言の英語ではあるが、追いつめられた時には言葉出てくるものだ。フロントのお姉様が笑顔でパスポートを出してくれた。ホッとした瞬間、腰から力が抜け前頭部からも相当数毛が抜け落ちた。なんて自分は馬鹿なんだ、でも良かった、と。ふと時計に目をやると、リハーサルの時間だ、ヤバイ再びホールに向かってダッシュだ。
汗だくとなってステージに上がった。その姿に感じるものがあったのか、オケのメンバーはこれまでで一番協力的だった。この数え切れないダッシュのおかげなのか、幸いなことに最優秀指揮者に選ばれ、翌日のコンサートの指揮を任されることとなった。パスポート様ありがとう。
翌日無事にコンサートは終了し、オケの方がパーティーを開いてくれた。ワインとウッォッカが次々と口の中に吸い込まれて行き、ダッシュと本番の緊張、そして本番の余韻の中、あっという間に酩酊の世界へ誘われてしまった。
翌朝ホテル出発は午前4時だったのでコレクトコールにしょうと思っていたが、連れが3時に起こしてくれるというので甘えることにした。
11時過ぎに部屋に戻りシャワーを浴びて最終の荷物整理をして横になった頃には日付が変わっていた。間もなく、夢の中で電話が鳴る。もう3時か、と何気なく受話器を取ると連れとは違う人の声で、
「先生どうかしましたか、他の人はすでにバスに乗り込んでいますよ」
と、受話器の向こうで、確かに言った。少しずつ頭が回転を始める。3時だと思っていたが、時計に目をやるとすでに4時。出発の時間だ。いけない、寝過ごしてしまった。いつもは遅い頭が超高速で回転を始めた。マッハに近いスピードで着替えを済ませ、昨晩用意しておいた荷物を持ってダッシュでエレベーターに乗りフロントへ。チェックアウトを済ませバスに向かうとスーツケースとおみやげのワインは手にしていたが、肝心のナップザックを背負っていない。再びダッシュで部屋に戻るとザックが待っていてくれた。9階からエレベーターに乗るが、エレベーターはダッシュしてくれない。速く速く、と呪文を唱えるもいっこうにスピードが上がらない、何とまどろっこしいことか。ルームキィーを返し、やっとの思いでバスに乗り込んだ。昨晩約束した連れが一言ごめんねと、言ってくれたのもつかの間、再び夢の世界に誘われてしまった。
桐田正章
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